学校における二つの倫理を見分ける「一原則・七視点モデル」 学術版

執筆者:小川 幸男
日付:2026/07/25
要旨:学校教育における「統治の倫理」と「市民の倫理」の混同を防ぐため、著者は現状を客観的に分析する「一原則・七視点モデル」を提唱しています。この枠組みは、指導の目的が組織の維持にあるのか、あるいは公平な社会形成にあるのかを七つの指標で診断し、場面に応じて適切な倫理を選択することを促します。教師は自らの怒りや決定権の所在を省みることで、指導のズレを認識し、状況に即した理由づけを使い分けることが求められます。特に、安全に関わる最小限の核は統治として厳格に守りつつ、日常の指導は市民の言葉で語ることで、生徒の自治能力を育む「第三の道」が示されています。校則や部活動といった具体例を通じ、このモデルは学校文化を論理的にデザインするための実用的な道具として提示されています。
キーワード:統治の倫理、市民の倫理
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学校における二つの倫理を見分ける「一原則・七視点モデル」
~いま、どちらの倫理が働いているのかを診断するために~
はじめに――このモデルの位置づけと使い方
学校では「市民(市場)の倫理」と「統治の倫理」が常に併存している。しかし教育場面では、両
者は無意識のうちに混同されることが多い。本稿は、その混同を防ぐための分析枠組みとして「一原
則・七視点モデル」を提案する。
最初に強調しておきたいのは、本モデルは「どちらの倫理が優れているか」を判定するものではな
い、ということである。統治の倫理にも、市民の倫理にも、それぞれ固有の正当な働きがある。本モ
デルが診断するのは、あくまで「いま、この場面で、どちらの倫理が働いているか」という事実であ
る。
そのうえで、本モデルは次の三段のフローで使う。
第一段【診断】 七つの視点で、いま実際に働いている倫理を見きわめる。
第二段【判定】 その場面で本来どちらの倫理が優先されるべきかを、場面区分(本論「学校文化
をデザインする『市場の倫理』と『統治の倫理』」第3節)に照らして判定する。
第三段【照合】 診断と判定にズレがあれば、それが「混同」である。ズレの方向と大きさが、指
導改善の出発点になる。
つまり七視点は「現状を観察する道具」であり、「あるべき姿」は場面区分が与える。両者を照合
して初めて混同が発見できる。この二段構えが本モデルの骨格である。
なお、一つの場面に両方の倫理が同時に働くことは正常である。生徒会が「ルールを守る活動」を
自治的に行う場面では、活動の運営は市民の倫理で、活動の内容は統治の倫理で動く。混合それ自体
は混同ではない。混同とは、一方の倫理が、他方が優先されるべき機能を侵すことを指す。
Ⅰ 大原則――何を守ろうとしているのか
二つの倫理を見分ける最も重要な基準は、「その指導や判断は、何を守ろうとしているのか」とい
う一点である。
統治の倫理が守ろうとするのは、安全・秩序・規律・組織の維持である。危険や混乱というマイナ
スを防ぎ、集団を安定させることに向かう。市民の倫理が守ろうとするのは、公平・信頼・合意・責
任であり、対等な関係の中で社会を形成し、新たな価値を生み出すことに向かう。
どちらも、集団が存続するために不可欠な「守り」である。防ぐことと創ることは優劣ではなく、
働く場面が異なるだけである。以下の七つの視点は、この大原則を具体的な教育場面で読み解くため
の観察指標である。
Ⅱ 大原則を読み解く七つの観察視点
各視点は、教師が自問できる「問い」の形で示す。いずれの視点も、両側とも正当な倫理の現れと
して記述してある。片側に該当したこと自体は誤りではない。誤りは、場面とのズレ(第三段の照
合)においてのみ生じる。
視点1 怒り・非難は、何に向いているか
問い:いま生じている怒りや非難は、何が壊されたことへの反応か。
統治の倫理のもとでは、怒りは秩序や位階の侵犯に向かう。「生意気だ」「○○のくせに」「指示に
従わない」という言葉が出るとき、守ろうとしているのは縦の秩序である。市民の倫理のもとでは、
怒りは公平や信頼の毀損に向かう。「ずるい」「卑怯だ」「約束を破った」という言葉が出るとき、
守ろうとしているのは横の関係の公正さである。
本論で倫理体系を「賞賛・非難の判断基準のまとまり」と定義した通り、非難の感情は、背後で働
いている倫理体系の最も観察しやすい現れである。教師は、自分自身の怒りの言葉を手がかりに、い
ま自分がどちらの倫理で動いているかを自己診断できる。生徒集団の側の非難の言葉(「あいつだけ
ずるい」等)も、集団に根づいている倫理の診断材料になる。なお、この対比は道徳心理学の道徳基
盤理論(ハイト)における「権威・忠誠の基盤」と「公正の基盤」の区別とおおむね対応しており、
二つの倫理が人間の生得的な道徳感情に根ざすことを示唆する。
視点2 関係の構造は、縦か横か
問い:この場面の教師と生徒(あるいは生徒同士)の関係は、上下か、対等か。
統治の倫理は縦社会の倫理であり、指導する者とされる者という上下関係を前提に働く。市民の倫
理は横社会の倫理であり、対等な当事者の関係を前提に働く。
注意すべきは、これを決定権の所在(視点3)とは独立に観察することである。教師が決定権を保
持したまま、話し合いの場では「フロアに降り」、一参加者として対等に意見を述べることがありう
る。関係の構造と権限の所在は、別々に動く二つの指標である。
視点3 決定権は、誰が持っているか
問い:最終的に決めるのは誰か。その決定権は、発達に応じて生徒へ委譲されているか。
統治の倫理のもとでは、決定権は教師・管理者にある。安全や学習権に関わる事項では、これは正
当な配置である。市民の倫理のもとでは、生徒が意思決定に参画し、発達段階に応じて決定権が生徒
集団へ広がっていく。
生徒が決めるべき場面で教師が決めてしまうことも、教師が決めるべき安全上の事項を生徒に委ね
てしまうことも、いずれも配置の誤りである。
視点4 規制の根拠と目的は、何か
問い:この規制は、何を根拠とし、何を守るために行われているか。
規制という手段そのものは中立である。どちらの倫理も、それを壊す行為への規制を要請する。見
分けるべきは、規制の根拠と目的である。
統治の倫理からの規制は、安全・秩序の維持を根拠とする。伝統や慣習の形をとることもあるが、
本来は「生徒の安全を守る」「学習権を保障する」という説明可能な合理的根拠を持つ。市民の倫理
からの規制は、公平性・信頼の保持を根拠とする。学級会での自己中心的発言、暴力を背景とした行
為、論理に基づかない賛同への規制がこれにあたる。
最も注意すべき誤りは、市民の倫理からの要請による規制を「統治の倫理の必要性」と誤解するこ
とである(本論第4節・要因5)。この誤解は「生徒に任せると混乱するから教師が決める」という
結論に直結し、統治の倫理による市民領域への侵犯を助⾧する。逆に、根拠を問うても安全にも公平
にも行き着かない規制――手段が目的化した規制――は、どちらの倫理からも要請されていない可能
性を疑ってよい。
視点5 取引は、許されているか
問い:この場面で「交渉・交換・例外の合意」は、認められるべきものか、禁じられるべきものか。
ジェイコブズの15ヵ条において、統治の倫理の第一条は「取引を避けよ」である。統治の場面で
は、規則を破った生徒と取引をすること(「○○さんなら××しているからよい」とすること)は、規律
そのものを破壊する。ここでは取引の禁止こそが倫理の要請である。
一方、市民の場面では、意見・譲歩・約束の交換、すなわち広い意味での「取引」こそが活動の本
体である。合意形成とは交換の積み重ねにほかならない。ここで交換を禁じ、結論を一方的に与える
ことは、市民の倫理の破壊である。
「いま、取引してよい場面か」という一問は、二つの倫理の適用領域を最も鋭く切り分ける試金石
である。
視点6 評価の基準は、何か
問い:この場面で賞賛されるのは、どのような行動か。
統治の倫理のもとでは、規則の遵守、指示への的確な応答、役割への忠実さが評価される。避難訓
練で整然と行動できることは、この倫理における立派な行動である。市民の倫理のもとでは、責任の
引き受け、信頼に足る言動、合意形成への貢献が評価される。反対意見を筋道立てて述べることは、
この倫理における立派な行動である。
同じ「発言」でも、統治の場面では指示への即応が、市民の場面では異論の提出が賞賛されうる。
評価基準のねじれ――市民の場面で従順さだけを評価する、統治の場面で異論を促す――は、混同の
兆候である。
視点7 失敗は、どう扱われているか
問い:失敗は、誰にとっての、何のリスクとして扱われているか。
統治の倫理のもとでは、失敗は集団の安全・秩序を脅かすリスクとして予防・管理される。避難や
事故防止に関わる失敗を「学びの機会」として放置することはできない。ここでは失敗の予防が正当
な要請である。市民の倫理のもとでは、失敗は当事者の学習と回復の機会として扱われる。生徒が自
分たちで決めた行事運営の失敗は、責任の引き受けと再挑戦を通じて市民の倫理を育てる最良の教材
になる。
ここでも問題は、扱いの取り違えである。安全に関わる失敗を「経験だから」と見過ごすことも、
生徒が引き受けるべき失敗を教師が先回りして防いでしまうこと(パターナリズム)も、それぞれ逆
方向の混同である。
Ⅲ 一原則・七視点の対照表
視点 統治の倫理 市民(市場)の倫理
大原則(何を守る
か)
安全・秩序・規律・組織の維持(マイ
ナスを防ぐ)
公平・信頼・合意・責任(社会を形成
し価値を創る)
1 怒りの向き 秩序・位階の侵犯へ(「生意気」「指
示に従わない」)
公平・信頼の毀損へ(「ずるい」「約
束を破った」)
2 関係の構造 縦(上下関係を前提に働く) 横(対等な当事者を前提に働く)
3 決定権 教師・管理者が持つ(安全・学習権で
は正当)
生徒が参画し、発達に応じて委譲され

4 規制の根拠・目

安全・秩序の維持(説明可能な合理的
根拠を持つ)
公平性・信頼の保持(公平度を壊す行
為への規制)
5 取引の可否 取引は禁止(規則を破った生徒と取引 意見・譲歩・約束の交換こそが活動の
しない) 本体
6 評価の基準 規則遵守・指示への的確な応答・役割
への忠実
責任の引き受け・信頼に足る言動・合
意への貢献
7 失敗の扱い 集団の安全・秩序へのリスクとして予
防・管理
当事者の学習と回復の機会として引き
受けさせる
Ⅳ 実例――「掃除をさぼった生徒への注意」を両様に読む
同一の場面が、二つの倫理のどちらからも読めることを、実例で確認しておく。掃除当番をさぼっ
た生徒に注意をする、というありふれた場面を取り上げる。
統治の倫理として読むなら、さぼりは「当番活動という決まりへの違反」である。怒りは「決まり
を守らない」ことに向き(視点1)、注意の主体は教師であり(視点3)、規制の目的は学校生活の
秩序維持である(視点4)。「今日だけは見逃す」という取引はしない(視点5)。
市民の倫理として読むなら、さぼりは「全員で分担した合意への違反」であり、他の生徒に負担を
押し付ける不公平である。怒りは「ずるい」に向き(視点1)、是正の主体は本来、合意の当事者で
ある生徒集団であり(視点3)、規制の根拠は公平性の回復である(視点4)。教師が代わって叱っ
て終わりにすれば、生徒が引き受けるべき責任を教師が肩代わりするパターナリズムになる(視点
7)。目指すのは、学級の話し合いで当番の仕組みを見直す、生徒同士が声をかけ合うといった、自
浄作用による是正である(本論第6節)。
注目すべきは、この場面ではどちらの読みも成立し、どちらの倫理からも規制が要請されることで
ある。だからこそ、どちらの倫理で指導するかによって、指導の主体・言葉・落としどころがまった
く変わる。低学年や学級の荒れが深刻な時期には統治の読みから入り、集団が育つにつれて市民の読
みへ移行する、という段階設計も可能になる。診断(第一段)と場面判定(第二段)を分けることの
実践的意味は、ここにある。
Ⅴ 理由づけの原則――診断から指導へ
七つの視点は診断の道具である。しかし診断の先には、「では、どう指導するか」という問いが待
っている。本節は、その問いに答える運用原則である。
Ⅳの実例が示した通り、多くの場面はどちらの倫理からも読むことができ、どちらの倫理からも規
制が要請されうる。ということは、規制や注意、指導を行うとき、それをどちらの倫理で理由づける
かは、かなりの程度、教師の選択に委ねられているということである。この選択が重要である理由は
二つある。
第一に、理由づけは倫理の伝達経路そのものだからである。生徒が内面化するのは、規制の内容で
はなく、規制に添えられた理由の側である。「決まりだから」「先生が言っているから」と理由づけ
れば、規制のたびに縦の倫理が再生産される。「全員で合意したことだから」「他の人に不公平だか
ら」と理由づければ、同じ規制が市民の倫理を育てる機会に変わる。理由づけの選択とは、市民の倫
理の意図的な育成(本論第6節)の、最小単位・日常版の実装である。大がかりな仕掛けを組む前
に、毎日の注意の一言から、育成は始まっている。
第二に、「必要最小限」と「絶対に揺るがせない」は相互に支え合うからである。縦の命令を乱発
すれば、一つ一つの命令の重みは下がる(命令のインフレーション)。最小限に絞るからこそ、発動
されたときの重みが最大化し、「絶対に揺るがせない」が現実に可能になる。逆に、揺るがせにしな
い核が確かに存在するからこそ、それ以外の広い領域を市民の倫理に委ねても、秩序は崩れない。麹
町中学校の事例を本モデルの言葉で言い直せば、この核まで撤去してしまったことが失敗の構造だっ
た。必要なのは撤去ではなく、理由づけの転換なのである。
以上を、次の三原則にまとめる。
【理由づけの三原則】
一 市民の倫理で理由づけられる規制は、市民の倫理で理由づける(これをデフォルトとする)。
二 統治の倫理でしか理由づけられない規制(安全・学習権の核)は、必要最小限に絞る。
三 その最小限の核は、絶対に揺るがせず、取引しない。
掃除の実例に当てはめれば、注意の第一声は「当番の決まりだから守りなさい」ではなく、「みん
なで分担した約束であり、さぼれば誰かに負担がいく」から入る、ということである。ただし、安全
に関わる指示はこの限りではない。危険の回避を要する場面では、市民の理由づけや合意形成を待た
ず即時に発動し、そして揺るがせない。原則一が広い日常を覆い、原則二・三が細く強い背骨を通
す。この配分こそが、統治の倫理を最小限に残しつつ市民の倫理を育てるという、本論第8節の「第
三の道」の、指導言語レベルでの姿である。
Ⅵ 場面別適用例
本モデルを、代表的な六つの学校場面に当てはめる。各場面につき、場面判定(本来どちらの倫理
が優先されるべきか)、起こりやすい混同、理由づけの実例を示す。
場面1 校則
【判定】 校則は一枚岩ではなく三層に分かれる。(ア)安全・学習権に直結する核(ヘルメット、
危険物持込禁止等)は統治の領域。(イ)集団生活の約束事(服装のTPO、スマホの扱い等)は市
民の倫理で合意形成できる領域。(ウ)根拠を問うても安全にも公平にも行き着かない規制(靴下の
色等)は、どちらの倫理からも要請されていない可能性が高い層である。
【混同】 (ウ)を(ア)と同格に「決まりだから」で守らせること。核の重みを薄める(命令のイ
ンフレーション)だけでなく、生徒に「校則=理不尽なもの」と学習させてしまう。逆に、「見直し
を生徒に委ねる」と言いながら教師が結論を握ることも混同である。
【理由づけ】 核は「命に関わる。これは交渉しない」と宣言し、揺るがせない(原則三)。(イ)
層は生徒会の改廃プロセスに乗せ、「私たちの学校の信頼をどう守るか」という市民の問いに転換す
る。改廃プロセス自体が、「与えられた掟」を「自分たちの合意」へ移し替える、理由づけの転換の
制度版である。
場面2 授業
【判定】 授業規律の最低限(安全、他者の学習権の保障)は統治。思考・発言・討論・誤答の扱い
は市民。一時間の中に両者が常に併存する、混合場面の典型である。
【混同】 発言内容への統治的介入。教師の想定解へ誘導する、異論を「反抗的」と受け取る――視
点6のねじれ(市民の場面で従順さを評価する)である。
【理由づけ】 私語への注意は「静かにしろ」(縦)ではなく、「あなたの私語は、隣の人の学ぶ権
利と、発言者の聞いてもらう権利を侵している」。学習権という統治の核に触れつつ、公平の言葉で
語る。討論場面では教師はフロアに降り、決定権は保持したまま関係だけを横にする(視点2と視点
3の分離の実演)。
場面3 学級会
【判定】 運営そのものが市民の倫理の本体。ここで働く規制は、統治からではなく市民の倫理から
の要請(公平度の保持)である。
【混同】 双方向にある。生徒の決定を教師が権限で覆すこと(統治の侵犯)。逆に、声の大きい生
徒の支配や力関係を背景にした同調を「任せているから」と放置すること(市民の倫理からの規制の
不作為)。
【理由づけ】 自己中心的な発言への規制は「先生が許しません」ではなく「全員が対等に意見を言
える場を、その言い方は壊している」。教師に懸念があるときは、決定を覆すのではなく、議論の中
で一意見として提出する。
場面4 生徒会
【判定】 自治活動は市民。ただし「ルールを守る活動」を生徒会が担うとき、活動の運営は市民の
倫理で、活動の内容は統治の倫理で動く。混合は混同ではない、の典型場面である。
【混同】 生徒会を教師の伝達機関・下請けにすること(形は自治、実質は縦)。また、点検活動を
する生徒自身が「取り締まる側」の位階感覚に流れること(視点1:怒りが下級生への位階的な怒り
に変質していないか)。
【理由づけ】 点検・呼びかけは「決まりだから守らせる」ではなく「自分たちで決めた目標を、全
員で守る」。ただし違反者との取引(「あの人はよい」)はさせない(視点5)。運営内部の不公平
が生徒自身の突き上げで是正されるなら、市民の倫理の自浄作用が育った証拠である。
場面5 部活動
【判定】 学校で最も縦社会化しやすい領域。安全管理(熱中症・事故防止、体罰・暴言の禁止)は
統治の核。練習計画、チーム目標、チーム内の約束事は、市民へ委譲できる領域が本来広い。
【混同】 「先輩だから従え」「顧問に口答えするな」――視点1で診断すれば位階への怒りが支配
している状態であり、根拠を問うても何も残らない「伝統のしごき」は、手段が目的化した規制の典
型(視点4)。逆に、安全管理や対外的責任まで「自主性」の名で放置することも混同である。
【理由づけ】 遅刻への注意は「先輩を待たせるな」ではなく「チームで決めた練習時間の合意を破
れば、守っている仲間に不公平になる」。熱中症対策は「交渉の余地がない」と核として即時に発動
する(原則三)。先輩後輩関係は、位階としてではなく、上級生から下級生への文化伝達の経路(本
論の学年文化伝達)として再設計すれば、縦の構造を市民の倫理の伝承装置に転用できる。
場面6 いじめ対応
【判定】 両方の倫理が同時に、最大強度で要請される場面。人権侵害の停止は統治の核であり、即
時に発動し、加害生徒と取引せず、絶対に揺るがせない(原則二・三の最重要適用例)。一方、傍観
者層への働きかけと、いじめを許さない集団規範の形成は、市民の倫理の育成そのものである。
【混同】 停止命令をためらい、加害側との「話し合い」で済ませること(核の不発動)。逆に、集
団規範の形成まで教師の叱責だけで代行し、傍観者層を市民として育てないこと。
【理由づけ】 加害行為の停止は統治で即時に。集団への語りかけは「先生が許さない」に加えて、
「一人を多数で追い込むことは卑怯であり、この学級の信頼を壊す」という市民の言葉で行う。「ず
るい・卑怯」への感受性(視点1の市民側の怒り)が集団に育てば、それ自体がいじめの最大の抑止
力になる。
六場面を通観すると、共通のパターンが浮かぶ。どの場面でも「核は統治で細く強く、日常の理由
づけは市民で広く」という同じ配分が繰り返し現れる。場面ごとに変わるのは核の位置(校則なら安
全、部活動なら事故防止、いじめなら人権)だけであり、原理は一つである。この一貫性が、本モデ
ルの現場適用可能性を裏づけている。
おわりに
本モデルは、どちらの倫理が優れているかを判定するものではない。学校には両者が必要であり、
重要なのは適用場面を見極めることである。
教師が「何を守ろうとしているのか」という大原則を起点に、七つの視点で現状を診断し、場面区
分と照合する。そして規制や指導が必要なときには、理由づけの三原則に従って言葉を選ぶ。このサ
イクルを回すことが、本論第5節で述べた「自覚に基づいた倫理選択」の、具体的な作動方法であ
る。境界線は、意識しなければ見えない。本モデルは、その境界線を見えるようにし、境界線の上で
言葉を選ぶための道具である。